昭和59年4月から4年間、附属横浜小学校でお世話になった毛利澄夫です。この度、当時同僚だった南雲先生からのお話があり、近況等を紹介させていただくことになりました。
附属小時代は短かったけれども貴重で濃厚な経験を多く積ませていただきました。学年所属は、5・6・6・2学年、理科主任、研究発表2回、関附連授業公開、区研究会授業公開等が記憶に残っています。附属小以降は、平塚市等の学校3校、平塚市教育委員会2回、平塚市での校長2校で定年。その後幼稚園長を1年経験し、長い流浪の旅を終えて教育関係の職場から離れ、ようやく地元厚木市をベースとした生活に戻りました。流浪の旅の中でのエピソードをいくつか振り返ってみます。
附属小以降は、崩壊学級・崩壊学年・崩壊直前の学校の立て直しを繰り返しました。教育委員会では、学校現場では想像できない激務を与えられ、片手間に学校訪問・研究実践の指導。指導主事仲間での合い言葉は「出る杭は打たれる、出過ぎた杭は打たれない」。中学校の理科の先生方の指導に出たとき、「この炎色反応の色は、教科書の色と違うのはどうして?」というような訳の分からない質問を浴びても平然。内心は小学校理科でさえよく分からないのに、よけいな質問をするでない! そうだね、ちょっと調べてみるから保留。と逃げて、職場に戻って大学の先生に電話。その回答をすぐに伝えて、中学校の先生から感謝される。そんな綱渡りばかりでした。そして、離任のときに理解したことは、「出る杭は抜かれて捨てられる」。すさまじい使い捨てです。教育委員会では、市から5億円をもぎ取って、障害児と不登校の拠点施設を作ったのが、私にとっては大事業でした。1時間で8000万円くらい業者に値切ったこともありました。議会のたびに質問と答弁をいくつも作成しました。
管理職になるときには、誰も知り合いのいない市外に転勤。学校がある場所さえ分からない所でした。そこに着任して2ヶ月後に研究発表会。何を研究してきたか職員に聞いてもちんぷんかんぷん。ようやくまた平塚市に管理職で戻ったときも、県フロンティアスクールの研究指定。職員は研究から逃げ回ってきたものばかり。事件ばかりで警察や消防対応が多かったですね。こんな時代に日本初等理科研究会の編集をやっていたのは、今振り返ると信じられないですね。
子ども教育相談センターの所長の席が十分あたたまらないうちに、校長がつぶれてしまった後始末で、2月校長着任。所長の仕事、規則改正を議会に通すことは、無理やり後輩にまかせて、いざ崩壊学校へ。そして最後の学校に転勤。ここも崩壊直前の状態。正規職員と同じくらいの数の臨任、非常勤教員。休職、育休、産休がぞろぞろ。全国小学校長会の仕事や日本初等理科教育研究会の理事長などをこなしながら、私の教員経験の締めくくりも後始末で定年(諦年)となりました。
父が亡くなったのは退職直前の3月。相続税や兄弟への分配のために私の退職金と蓄えは一瞬にして消え、父の後を引き継いで農地管理などが始まりました。農地管理は、小規模だと無駄使いそのもの。私の場合、年に100万円くらい赤字。農業機械の減価償却が大変なのです。10年で1000万円くらいドブに捨てたことになります。もう嫌だ、いくら先祖伝来の土地であれ、鎌倉時代とはわけが違う。やってられるか!
退職して数年後、土地活用の研究会が始まりました。そこで分かったことは、都市計画道路が農地を斜めに横切って計画されていること。こんな不便な形になるのは許せない、計画を変更させ、区画整理を進めよう。ところで、会長は毛利、お前だ。居眠りをしていた私は、突然の指名にびっくり。どうしても拒否できないで、押し付けられてしまいました。
それからが大変。毎月2~3回の打ち合わせや会議が続きました。農地管理をしながらの無償ボランティアです。市の担当課、市議会議員、県議会議員等との打ち合わせ・請願・交渉などが何年も続きました。開発に賛成できない地権者からしかられながら、予算、業務代行者決定、庶務規定、会計規定、工事請負規定、業務代行規定、土地評価基準、換地規定、保留地処分規定、定款、事業計画書などを整備し、総会の承認を得て土地区画整理組合設立認可申請。それから7年程度の工期です。厚木市酒井の区画整理事業の推進、今年でこの事業は完了。研究会からの通算15年近くになります。教員を卒業してから、全くの素人が、100億円近くの事業を進めることになるとは思っていませんでした。教員時代からの「いい加減」があったから乗り越えてこられたと思います。市からは25億円程度の支援をいただきました。議会で承認された表のお金です。
区画整理事業だけでも大変なのに、ボランティア活動の要請が次々とかぶさってきました。無償ボランティアの保護司活動(14年間で関わった対象者は17名)、地域の自治会役員(評議員4年・副会長2年・自治会長2年)、神社総代4年。それらも今年で締めくくりとなります。何とか自分の命をつないできて、喜寿を迎えました。
過去に比べればほんの少しの野菜(20種類程度)を育てながら、毎日が惰性で生きているようです。何気ない毎日の暮らしが、外の世界に向けたものから内面に向けたものへと移行してくるような気がします。地域ボランティアも野菜栽培も、自分自身を見つめ直し、自分が土に還る場所を模索する作業のように思います。

校長通信は退職で途絶えましたが、毎年、当時の職員が同窓会を開催し、案内してくださいます。毎年1回、近況報告として校長通信の号外を作ってきました。これまでの号外の一部(抜粋)を振り返ってみます。
■お米作りに四苦八苦(平成24年7月27日)
今年は、田植えが5月27日から30日。用水の関係で、植えるのが少し遅くなり、6月の天候不順もあって、生育状況は昨年よりやや遅れています。7月21日から22日、穂を実らせるための追肥を施肥。昨年の施肥はキヌヒカリ専用が余っていたので代用したが、今回はNK化成を12キログラム/10アール。正直なもので、施肥後すぐに葉の色が濃くなってきています。あまり濃すぎると、これからの台風被害での倒伏が心配になります。水田内は、6月の除草剤の効果が少ない取水口に近いところを中心に、雑草(コナギ、ホタルイ、オモダカなど)が元気に生き残っています。種をこぼしてしまうと、来年の雑草が大幅に増えてしまい、扱いが難しくなるのが予想されます。雑草が多ければ、稲が吸うべき肥料を、雑草が先に吸収してしまい、お米の収量が減ってしまう。そこで、この時期に草取りをするわけだが、暑さの中で田んぼに入るような若い情熱のある人はほとんど見られません。熟練者は、雑草が伸びる前に手を打つ。上農は、草を見ずに草を取るわけです。6月中旬に2回目の除草剤を散布します。しかし、丁寧に除草剤で処理すると、除草剤の費用だけで10アールあたりの費用が1万円を越えてしまうのです。苗の費用、肥料代、水利費、機械の減価償却、機械の燃料とメンテナンス、費用のことを考えたら、お米は作るより買った方がはるかに安いものなのです。
雑草対策、お米の確実な収穫のためには、水田の水管理が重要です。しかし、これが思うようにいかないのが現実です。昼間の水利権がありません。用水路整備は、江戸時代からの先人が苦労してきたこと。今、安定して用水の供給ができているのは、先人の苦労の成果です。我が地域でも水争いで血を流し、幕府が調停したという記録が残っています。現在でも水利組合の各地区代表の調整会議があり、各地域への分配量、供給時間の調整の協定があるため、我が水田には、夜間12時間のみ水が入るようになっています。取水堰が自動的に作動するようになっていて、思うように変更はできません。この水利組合は、耕作面積に応じてお金を出し合って水路管理等の運営をしています。我が家では、年間3万円くらい拠出します。また、田んぼと水路の配置から、低いところをせき止めて逆流して水を入れる田んぼも数多いわけです。そういう田んぼにザリガニがいると、水をとめている畔に穴をあけてしまい、稲に必要な水を放流させてしまう。ザリガニは大敵天敵目の敵。みつけたら、退治するか、影響のない水路等に放すしかありません。要するに、田んぼの水を適切に維持できるようにするためには、こまめに見回って水を入れたりせき止めたりするしかないのです。もちろん、我田引水です。各自が勝手な時間に我田引水をするものですから、喧嘩にならない程度に我田引水を毎日、いや毎晩していきます。
除草剤は、水に溶けて水面に膜をはって、それより下の雑草を絶やします。効果を高めるためには、除草剤散布後の数週間から1ヶ月、水の出入りがないように管理しなければなりません。ところが、稲が水を吸う量もあり、蒸発するものもあり、大雨であふれるときもあり、ザリガニが放出させるときもあります。一定量の水位を確保し、除草剤の膜を安定させておくのは大変なのです。
各田んぼで除草剤や殺虫剤を扱っている時期、6月から7月は、生活科の学習などの影響もあって、生き物探しをする子どもや親子連れに出会うことが多くあります。私が気がつけば、注意して説明をし、止めさせるのですが、学校での指導はないようですね。親も知識を持ち合わせていません。田んぼの水は、農家の人だったら素手ではさわらないように気をつけます。さわった手は、除草剤で汚染されていない場所の用水路の水ですぐに洗います。素足で田んぼに入ることは、絶対しません。それだけ怖いのが6~7月の田んぼです。どの田んぼに、誰がいつどれだけの農薬を使ったか、それぞれが勝手に行っていてわからないのですから。その田んぼから流れ出た農薬混じりの水が用水路を通って別の田んぼに流れていき、全体を潤しているのです。子どもを田んぼに近づけることを、それでも推奨しますか?
雑草対策と対応が一段落したら、穂が出ます。そのころは、イネツトムシ、ウンカ、イナゴ、カメムシなどの害虫の被害の心配と、稲穂が熟す前の汁を吸うスズメの大群への対策です。害虫対策は、発生してからでは遅く、1ヶ月前のころ、発生を予測して防除をします。スズメは、電線や樹木や家の屋根を足場にしてターゲットとする田んぼを狙います。これを防ぐには、今のところ案山子の効き目がありそうです。次第に案山子があちこちに増えてくると、効き目が弱くなって困るわけです。
誰かの田んぼが犠牲になるのが一番いいのですが、スズメに決定権があるので、人知は及びません。
■救急搬送・慢性硬膜下血腫(令和6年7月22日)
学校に勤務していた時代に救急車を要請したことが何回かありました。しかし、まさか自分自身が救急搬送されることは、想定していませんでした。しかし、既に後期高齢者。運転免許証更新では、高齢者講習が必要な年齢になってしまいました。認知機能検査、実車指導などを受検・受講。記憶力や視野の低下、運動機能の低下を自覚させられました。
入院1回目は、令和6年2月7日(水)~14日(水)。普段普通に乗っている自転車道、ヘルメットを着用していたのですが、軽度の坂道でバランスをくずして転倒。自力で起き上がり、自転車を引いて歩いて帰宅。様子がおかしいと気づいた妻が病院へ。「慢性硬膜下血腫(まんせいこうまくかけっしゅ)」。頭蓋骨に穴を開けて脳を圧迫している血を抜く「血腫洗浄・除去術(穿頭による)」を受けました。
頭の骨(頭蓋骨)のすぐ内側には硬膜と呼ばれる膜があり、この硬膜の内側にじわじわと出血が起こって血液の塊(血腫)ができた状態を慢性硬膜下血腫といいます。慢性硬膜下血腫によって脳が圧迫されるために、頭痛・手足の麻痺・尿失禁・痴呆(ぼけ)・うつ症状・ふらつきなどの症状が現れます。放置すると血腫はどんどん大きくなって脳が圧迫され、意識障害が進行し生命にかかわります。幸い、現在の症状としては、脳の一部偏りはあって平衡感覚が弱くなり、たまに頭痛を感じる程度で、他の症状は見られません。
入院2回目は、令和6年2月27日(火)~3月4日(月)。搬送は救急車でした。救急車に乗って隊員と言葉を交わしたのは覚えていますが、すぐに意識がなくなり、病院に着いたときには瞳孔が少し開きかけていたそうです。前回と同じ「血腫洗浄・除去術(穿頭による)」。2月29日に意識は戻りましたが、穿頭場所から血腫除去のドレーン、点滴チューブ、心拍モニターなどが体につながっており、両手がベッドに固定されていました。拘束は手術後しばらくして解除になりました。
あまり経験したくない手術を月に2回も受けたので、今後は安静にこころがけ、散歩程度の体の動きなどをしてリハビリに努めています。毎月のように通院し、CT画像をチェックしていただいています。脳が片方に寄っていて、頭蓋との間に隙間があり、戻るには時間がかかるそうです。漢方薬を服用し、生活で頭を打たないよう留意しています。
■保護司会の施設視察研修(令和7年7月28日)
昨年の12月9日、保護司会で静岡刑務所の視察研修に行きました。以前には年1回の宿泊研修でしたが、近年は日帰りが多くなりました。参加費用は自己負担で、参加者は32名。事前に名簿を施設に送っておき、名簿の番号順に2列に整列して中を視察します。刑務官の誘導・指示に従って行動し、火気・通信機器・録音機器等の収容区域内への携行は不可。被収容者と言葉を交わすのは禁止、私語は控え、静粛を旨とする。いずこの施設も、参観留意事項は同様です。
2組程度に分かれて収容区域に入り、入口は2重の鉄格子と鍵に挟まれて人数チェックを厳格に行います。区域内は5mくらいの高さの塀と電気柵に囲まれ、まず脱走は無理。静岡刑務所は、明治時代に都市部から離れたところに設置されたのですが、都市が拡がってしまって、今は町中にあります。82,646㎡の敷地は、大野小学校の約12倍。収容対象者は、実刑期10年未満で犯罪傾向の進んでいない男子受刑者、外国人男子受刑者、未決拘禁者が中心で収容定員897名。中には無期刑もあり、最高齢者は88歳。主罪名は、窃盗22%・詐欺12%・強姦等11%・覚醒剤10%・強盗8%・殺人7%・強制わいせつ4%・傷害等5%・放火3%・大麻等3%・道交法等3%・住居侵入等2%・横領その他10%。6:35起床、7:50~12:00、12:30~16:30が刑務作業、21:00就寝。平日の刑務作業は、生産作業(木工・印刷・洋裁・金属・その他)、自営作業(炊事・洗濯・清掃等)、職業訓練。1ヶ月のうち平日2日間は改善指導。土・日・祝日が休日。作業の収入は国庫に帰属。受刑者には作業報奨金、全国平均1ヶ月当たり約4,600円が支払われ、釈放の際に支給されます。

一般改善指導は、広く受刑者一般に対し、講話・行事・面接・相談助言などにより、規則正しい生活習慣や健全な考え方を付与する指導であり、アルコール依存回復プログラム、暴力防止プログラム、窃盗再犯防止指導などを行っています。特別改善指導は、改善更生や社会復帰に支障がある受刑者に対し集中的な指導を行うものであり、薬物依存離脱指導、性犯罪再犯防止指導、被害者の視点を取り入れた教育、交通安全指導、就労準備指導を行います。
2時間程度の施設視察研修は、工場棟での作業の見学、炊事棟や食事サンプルの見学、浴室、収容棟の見学(個室あるいはグループで生活する部屋)などが終わると、鉄格子を2回くぐり、会議室で刑務官からの説明・質疑応答で終了します。
令和4年に刑法等の一部改正があり、今年6月1日から懲役及び禁錮を廃止して拘禁が創設されるという報道がありました。「懲らしめ」から「立ち直り」へ軸足を移し、受刑者へのきめ細かな処遇で更生を後押しするという主旨です。現状の刑務所等を視察すると、社会復帰に向けての職業訓練や改善指導を行っているという説明やパンフレットでの紹介がありますが、刑務官の監守のもとに無言で黙々と作業することを課している様子がほとんど。1ヶ月に2日程度の行事や講話等で、受刑者の特性に応じた教育指導がなされているかどうか、はなはだ疑問です。ある刑務所の刑務官が言いました。「警察官は(悪い人を)つかまえる、刑務官は(悪い人が作業や施設から逃げ出さないように)監ている(見張ってとりしまる)ことが仕事」。一般的に、犯罪者による被害者への賠償は困難であり、贖罪の意思が出てくるまでの指導も難しいし膨大な時間と労力を必要とする。施設内でのルール違反や暴力等に目を光らせながら、人員が十分に保証されないままで刑務官が自身の身の安全を守ることは厳しく、とてもゆとりがないだろう。しかし、刑事収容施設の維持や人件費で、受刑者1人あたりにすれば、ホテルへ宿泊する程度の費用を税金から投じていることも事実。犯罪被害、物価高等で困っている私たちが、再犯防止のためとはいえ、これ以上受刑者(高齢者・障害者・若年者・薬物依存者)の立ち直りや福祉を応援する必要や義務がどれだけあるのかと問われると、いくら受刑者の側から社会復帰を応援する保護司であっても、簡単に答えが出てきません。一般社会の受刑者に対する偏見・懲らしめ・拒否・排除等の意識は、そう簡単に拭えないと思われます。義務教育等においても、教育の内容や方法が変わる(質的な変革)のに、50年、100年という時間を要したように、いやそれ以上に、犯罪者の処遇や社会の受け入れ方の変化には長い時間を必要とするように思います。

玄関、神棚、知人にも分ける。神社本殿のしめ縄も作成して奉納する。







