「恩師の近況」第6回は森田裕子(旧姓 山田裕子)先生です。
1984 6年生「はばたき」
1985 4年生「トライアングル」
1986 1年生「たいよう」
1987 6年生「響」
1988 4年生「パレット」
1989 4年生「チャレンジ」
1990・1991 3年生・4年生「ジャンプ」
1992・1993 5年生・6年生「大地」
1994・1995 5年生・6年生「燦」
1996 3年生「Take off」
1997 1年生「あいあい」
(森田先生の授業風景)
小林広昭先生から紹介されました。森田裕子です。附属小学校に勤務していたころは、山田裕子でした。私は、14年間も附属小学校にお世話になりました。若くして、附属小学校の教員になったので、多くの先輩の先生方にお世話になりました。そして、未熟な私を支えてくれたのは、出会った子どもたちでした。今思い返すと、その全ての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
附属小学校から横浜市立の小学校へ転任し、何校か経て、瀬谷区三ツ境小学校の校長を最後に定年退職しました。定年退職後、3年間横浜市の小学校で初任者指導教員を務めました。6人の初任の先生と触れ合いましたが、みなさんとてもまじめで仕事熱心でした。真摯に教師という仕事に向かっていて、これからの活躍が楽しみでした。姑や実母が高齢なこともあり、現在は家庭に入っています。主婦としては新米で、主婦業猛勉強中です。
私は、附属小学校の60期の卒業生でもあります。附属っ子としての思い出として、少し昔の附属小学校での生活を中心にお伝えできればと思います。
1.尊敬する先生との出会い
私が教師になりたいと思ったのは、1年生の時に音楽を教えてくれた井田先生との出会いです。当時はまだ旧姓でした。大学を卒業して間もない頃で、若くて美しい方でした。週2回の音楽の時間が楽しみで、「どうして国語や算数は毎日あるのに、音楽は週2回だけなのかな。」と思っていたくらいでした。
始業式や終業式、入学式や卒業式など儀式のときに、校歌の伴奏をする姿をうっとりと眺めていました。
1年生の時の担任の先生は山岡先生でした。山岡先生は30年以上附属小学校に勤務されていたので、教え子が沢山いらっしゃると思います。引っ込み思案だった私に丁寧に目をかけて、優しく大切に育ててくださいました。
私たち60期は前の東京オリンピックの年に入学しました。そして、6年生の時にアポロ11号が月面着陸し、人類が初めて月に降り立ちました。「みんなは輝かしい歴史的出来事とゆかりの深い学年ですね。」と、卒業する時の担任の先生がおっしゃったのを思い出します。その時の担任の先生は武山先生でした。
私が在籍していたころから教科分担方式が取り入れられていたので、担任の先生以外にも沢山の先生に教えていただきました。小学校時代にお世話になった全ての先生方のおかげで、伸び伸びと成長することができました。
2.学年愛称
今、附属小学校では各学年に愛称がついていて、学年通信の名前になっています。実は一番初めに学年愛称がついたのが、私たち60期だと記憶しています。それまで、普通に「学年通信」として配布されていましたが、私たちが4年生の時、名前がつきました。その名は「えうのかお」。「えっ」と思うかもしれませんが、逆から読むと「おかのうえ」です。このひねりの利いた名前は、子どもたちに喜んで受け入れられ、卒業するまでずっと慣れ親しみました。それから長い間ずっと、学年愛称の伝統が引き継がれていることを、教師になってからも嬉しく誇らしく思っていました。
3.宿泊体験学習
附属っ子たちの心に深く残った行事が豊かな宿泊体験ではないでしょうか。
<山荘学習>
3・4・5・6年生が体験した「山荘学習」は、卒業してもいつまでも楽しかったことが語り継がれています。山梨県の清里に「若梅寮」という学校の寮があり、3・4年生は2泊3日、4・5年生は3泊4日、たっぷり自然と触れ合う体験をしました。
昼間は山登りをしたり、野辺山の鉄道最高地点まで散策したり、近くの河原で野外炊飯をしたりしました。清泉寮で搾りたての牛乳を飲ませてもらい、その濃厚さに驚いたこともありました。
夕食が終わってからは、キャンプファイヤーをしたり、室内ゲーム大会や演芸大会のようなお楽しみ会をしたりして、寝る時刻になるまで一日たっぷりと充実した活動を積み重ねました。
<真鶴臨海学習>
4年生の行事でした。真鶴にある大学の施設で、海の生物の観察をしました。施設が小さいこともあり、学年全員ではなく、1クラスずつ訪れるのが特徴的でした。
相模湾に生息する生き物の話を聞いたり、岩浜の潮だまりで生き物の観察をしたりしました。
潮だまりにはアメフラシがいて、触ると紫色の液を出しました。フジツボ、イソギンチャク、ふなむし、海藻などを実際に目にして、夢中になったことを覚えています。
<雪国交歓会>
5年生の時、新潟の小学校と交流しました。新潟の小学生と附属の小学生が1対1または1対2の組になって、互いの家に民泊する行事です。夏、新潟の友達が横浜にやってきて横浜を案内したり、海水浴をしたりしました。冬、横浜の子どもたちが新潟に行って、雪遊びやスキーを教えてもらいました。
私が訪ねた家は農家だったので、家の中に囲炉裏がありました。囲炉裏の周りに座って食事をする経験もさせてくれました。残念ながら、新潟の小学校の子どもの人数が減り、交歓会を続けることが難しくなったとのことで、私たちが最後でこの交歓会は行われなくなりました。
<修学旅行>
6年生は修学旅行です。私の時は、卒業式を終えてから修学旅行に行きました。担任の先生が「制服を着る最後の機会だね。」とおっしゃったのを覚えています。前年までは登呂遺跡を見学していたそうですが、私たちの時は修学旅行が変わるときでした。新幹線に乗って名古屋へ行き、明治村の見学、犬山城の見学、モンキーパークの見学などをして、長良川のほとりの宿に泊まりました。
その翌年か、翌々年から飛騨高山の修学旅行となったようです。飛騨高山への修学旅行は、それからずっと続いており、感慨深いです。
教師としても、とても充実した14年間でした。
出会った子どもたちは、みんな素敵でした。
自習時間にプリント課題を使わず、自分たちで授業をするように学習を進めた学級があり、「ここまでできるのか。」と驚きました。国語と音楽を関連させた学習を実践し、子どもたちがグループごとに話し合いながら音楽を創り上げることもしました。様々な実践を工夫することができたのは、主体的に学習することができる子どもたちのおかげでした。
運動会の前日に、保護者の方々から「明日の運動会は必ず優勝!みんな頑張れ!」と力強い応援のお手紙を頂き、本当に優勝したことがあり、子どもたちとともに大いに盛り上がりました。
中学校の卒業式の日に、制服のまま卒業証書をもって卒業生が私を訪ねてくれたことがありました。大きく成長した姿を私に見せてくれ、深く深く感動しました。教師という仕事の素晴らしさ、やりがいをしみじみと感じた瞬間でもありました。
人としても、教師としても、私を育ててくれたのが附属小学校です。そして、小学校の時に出会った仲間たちとは、今も仲良く交流を深めております。一生ものの出会いを授けてくれたところ、それが附属小学校です。これからの発展を祈っているとともに、今までもこれからも、私は附属小学校を応援しています。
森田裕子