横浜国大附属横浜小学校 同窓会

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恩師の近況 第11回「流石良子先生」

第11回目をお引き受け頂いたのは、流石良子先生です。

目頭が熱くなる当時のエピソードが数々ありますので、じっくりお読みいただければ幸いです。

 

 山田真也先生からバトンをいただきました。流石良子です。
附属横浜小学校には平成9年4月~平成14年3月までの5年間お世話になりました。
横小を離れてからは川崎市の小学校に戻り定年退職まで勤めました。定年後は母の側で過しておりました。二年目から山梨の大学と神奈川の大学で教員養成の非常勤講師を勤めました。河口湖から出勤することもできましたが、時間割の関係で橫浜のホテルから通勤していた時期もありました。そのホテルで何と横小で3年生を担任した時の人にばったり。マスクはしておりましたがすぐに分かりました。奇跡的な出逢いでした。現在67歳で元気です。昨年から橫浜の大学で幼児教育に関する仕事を頂いています。週末は河口湖に戻る生活です。横小に着任できましたことが今の仕事に繋がっています。ご縁を強く感じています。

 

 横小に着任し最初は5年生。翌年に持ち上がりの6年生の担任でした。次に3年生を二年間。最後の5年目に1年生を担任いたしました。全ての学年で今も心に残る出来事がございます。そして、今に繋がっていくことを当時は知るよしもありませんでした。
まず、5.6年生と持ち上がりました学年では、3クラスで合同の総合学習に児童学年委員会を頻繁に行い、児童自身が追究したい課題を決めていくことからスタートしたのを良く覚えています。皆、やりたいことを真剣に考え、教えてもらえる先生を探したり、友達を師匠としたり、多くの外部講師を保護者の皆様のご協力を得てすすめることができた授業は、子ども達の必要観から生まれた活動であったことを思い出します。また、各施設訪問も私自身初めての訪問と経験を6年生と共にできたことをよく覚えています。この施設訪問でお世話になったある施設に現在の大学でも学生の実習先としてお世話になっていることが分かり、驚きとご縁を感じております。

 

 次の3年生では、スウェーデンの歌手レーナ・マリアさんの日本の小学校訪問コンサートが児童の学びのきっかけでした。横小を日本最初の訪問として訪れたハンディキャッパーであるレーナさんの歌声に子ども達も私も魅了されました。コンサート後にはもう一度あの歌声を聞きたいという思いと、勇気と元気をもらったのでお礼をしたいと言う気持ちが高まりビデオレターを届けることになりました。この活動は一年間にわたりました。日本らしさとして、屏風、お茶のお手前、日本舞踊を紹介したいとなりました。屏風づくりは、登校後も休み時間もつくり続け数ヶ月はかかっていたと思います。

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(写真は、屏風が美術冊子「美育文化」に掲載されたものを抜粋)

お茶のお手前は表千家教授長谷川宗孝さん(実は私の姉でした)に一日来ていただき、その後、毎日、給食後の時間に練習。日本舞踊は週に1回、日本舞踊の先生(卒業生の保護者の方でした)に、お弟子さんがお二人も来られて、「さくらさくら」をご指導いただきました。ビデオレター撮影は同時に保護者の皆様、街探検でお世話になった地域の商店会の皆様にもご覧頂きたいとお招きしました。不二家の叔父さんや体育館裏の叔母様が感激して下さったことをよく覚えています。様々な情報やビデオレターの手配、日本舞踊指導等、全て保護者の皆様のおかげでした。また不二家の叔父さんから頂いたペコちゃんのお人形は夏休みや冬休みになると誰もいない教室ではペコちゃんがかわいそうと、皆の家にペコちゃんがお泊まりしていたこともありました。あれから23年、ペコちゃんは今、私の家にお泊まりしています。

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 翌年の3年生は、「街のいいところ探し」に地図を頼りに出かけていき、「大鳥園」の名前に教室では遊園地ではないかの予想の基に探検に出かけたチームがありました。大鳥園は遊園地ではなく正式名は中区社会福祉協議会中区ボランティアハウスでした。チームは毎回、帰って来るとお年寄りとの遊びが楽しくて次の遊びの計画を立てていました。しだいに他のチームからも大鳥園に行ってみたいと声が上がり、学級全員が少人数で大鳥園を訪問することができました。何回かすると子ども達から、壁に「車いすが足りません。どなたか使わなくなった車いすがあったら寄附して下さい」と書かれた紙を発見したと報告がありました。ここからユニセフ係が活躍。プルタブ750キロで車いすと交換できるという情報を得て全員でプルタブ集めがスタートしました。幾度となく挫折しそうになりました。必ず誰かが「諦めちゃ車いすあげられないよ」の声が上がり懸命になっていました。学校全体への呼びかけ、地元商店街、保護者の皆様への呼びかけと、できる事をやり70キロまできたとき(既にその年の年末)、車いすへの交換が終了した事が分かりました。衝撃でした。しかし学校技能員の方からプルタブを買って下さる業者がいると教えていただき現金(25000円)にできました。保護者の方からは通常は6万円の車いすを25000円で売って下さる業者がいるという情報が入りました。車いすが学校に到着したとき、代表が車いす代を社長さんに渡し、車いすを皆で受け取りました。緊張していた子ども達は、社長さんの次の言葉で目が点になってしまいました。「こんなきれいなお金は受け取れません。お金はお返しします。」と、子ども達は何を言われているか分からない様子でした。その場に立ち会って下さった副校長先生も私も涙を止めるのに苦労しました。本牧にある車いす関連の社長さんから無償で車いすを頂きました。手元に残ったお金は全額、全員賛成でユニセフ係がユニセフに募金しました。ボランティアハウスには内緒で車いすをプレゼントしに行きました。車いすを届けると施設長さんも園の皆さんも本当に驚かれ喜んで下さいました。この取組みは後日、神奈川新聞に「努力と多くの善意集め国大附属小3年生車いす社協に贈呈」(2000年3月18日)と掲載されました。新聞記事を読む度に今でも目頭が熱くなります。なんとそれから現在、大学で社会福祉協議会の皆様に学生が実習を通して深くお世話になっています。

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 1年生の学びは学校探検からはじまりました。学級園に野菜を作り始めたとき、同時期にお家の庭で野菜を育てている叔父さんに気がついた子ども達から学級園の野菜は全然大きくならないけど叔父さんの野菜は大きい。何か違うと声が上がりました。下校時に数人が叔父さんに声をかけ肥料をあげているのか、どうしてこんなに大きくなるのかと伺うことになりました。鈴木さんと言う名前の叔父さんとわかりました。ある日、叔父さんから土をもらいました。土が違うと思うと叔父さんが教えて下さいました。叔父さんから頂いた土を各班で分け、土を虫眼鏡で観察しました。学級園の土との比較が始まりました。鈴木の叔父さんと一年間に及ぶお付き合いが始まりました。下校帰りに叔父さんがいると声をかけ、野菜をもらって帰る子ども達もいたと聞きました。子ども達は土をつくるという言葉に衝撃を受け、何を入れてつくるのか不思議ばかりでした。フワフワの土で、小さく切った昆布が入っていたのには驚きました。そば屋さんから頂いた出しがら昆布と言うことでした。さらに驚いたのは白髪が結構見つかった事でした。それだけ毎日土をつくっていたのだと分かり、次の野菜には土作りから子どもたちは始めていました。鈴木の叔父さんからは様々な苗を頂き野菜作りをご指導いただきました。ある日、学級園で草取りをする子ども達の歌に鈴木のおじさんの名前があることに気がつきました。「鈴木の叔父さんからもらったシシトウでお料理いっぱいつくって食べました。」と、その歌を忘れたくなかったので譜面に置き換えたいと思ったのですが、なかなかうまくいきません。すると僕のお母さんがピアノをよく弾いているからできるかも知れないとの情報で、保護者の方にお願いしたところ、短時間で子ども達が歌う歌を譜面に置き換えてくださいました。このことがきっかけで、鈴木の叔父さんの歌が完成。鈴木の叔父さんに感謝の会を開くことができました。この年も保護者の皆様のおかげでした。


 近況報告をするつもりが5年間を振り返る形になってしまいました。いつでも子ども達の一生懸命な姿が大人の心を動かし、子ども達の夢が実現してきたことを思い出しました。感謝しています。また横小で子ども達に「皆さんは世界を救う人達だ。」と幾度となく話したことを覚えています。多くの子どもたちが今、世界と日本の架け橋になり活躍していること。市民を守っている人、多くの人の命を救っている人、皆に幸せを与えている人等と嬉しい情報が入ってきています。今後も横小の全ての子ども達の健康と活躍を願っています。
横小での5年間が今の仕事に結びついていると強く感じています。5年間の思い出を綴ってしまいました。有意義な5年間となりましたのは、子ども達、保護者の皆様、地域の皆様、教職員の皆様との出逢いがあったからです。深く感謝しています。
お人柄が笑顔に溢れている山田真也先生からバトンを頂き、光栄に思っています。全ての皆様に感謝し御礼を申し上げます。皆様のご健康とご活躍を願っております。
流石良子